先日、重要な仕事の場所を間違えてしまい、正しい場所に移動するのに二時間かかってしまい、先方の方をその間お待たせし、仕事の依頼主にも大変なご迷惑をおかけしました。
たいへん申し訳ないことをしたのですが、私としては充分にお詫びを申し上げ、二度とこのような間違いをしないように対策をとるしかありません。
このことは私のミスですが、お身内を交通事故で亡くした場合であるとか「次の解決策」などあり得ない場合もあるでしょう。
あのとき、もっとああしておけばよかったと思い悩んでも過去を変更することはできません。
未来も同じです。
私は今大恩あるお二人からの仕事の依頼がバッティングしており、あちらを立てればこちらが立たずということになりかねない状況に置かれています。
具体的な内容はもうしあげられませんが、どうしたらいいのだろうと悩んでおります。
ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと思い悩んでいると、未来の悪い状況ばかり考えているということに気づかされます。
過去と違って未来はコントロールできそうな気もしますが、結局、未来は現実ではなく、できることは今やれることだけです。
●現状を受け入れること。
●ご迷惑をかける可能性がある状況を正直に説明すること。
●解決方法をなんとか探ること。
●一人で抱え込まずに人に相談すること。
●知恵がでることを信じること
こんなところでしょうか。
先日、ある先生から教わったことですが、「過去」も「未来」も「こころ」が作りだしているものだということです。
あのときああすればよかった、なぜあんなことになったのだろう、こうなったらどうしよう・・・なるほどみんな現実ではなくこころが作り出しているのでしょう。
やるべきことは「今」にあること、私たちを苦しめる過去も未来も実は私たち自身のこころが作り出している幻であること。
大事なことはそのことに気づくことだそうです。
過去の事実も未来の予想も、そのことにとらわれていると苦しみの元です。
過去を反省しない、将来の計画をたてず行き当たりばったりに行動することはもちろん褒められたことではありません。
しかし反省も計画も、いま何をすべきかを判断するための材料であるべきでしょう。
苦しいときは、こころが作り出した過去と未来がなんの解決策も生み出さないまま、堂々巡りで私たちを執拗に苦しめ続けているのかもしれない。
実はそのことに気づくための練習が瞑想だそうです。
精神集中と観察、これが止観と呼ばれる仏教の瞑想です
。
瞑想も座禅も何も考えずにこころを無にすることだ、と思っていました。
それだと瞑想が終わればまた元通りです。
仏教の用語は難しく深淵ですが、実はもっと現実に即したわかりやすいものなのかもしれません。