今日、母が田舎(福井)から上京して、久しぶりに銀座などを歩いた。

母もだいぶ歳をとって足を悪くしている。平地はそれほどでもないが階段はつらそうである。

東京駅に迎えに行き、京成線、都営浅草線と乗り継いだのだが、エレベータ、エスカレーターを利用できず、階段を使わざるをえない場面がいくつもあった。
たとえば都営線の東銀座駅を利用したが、東銀座にある九つの出口のうちエレベータがあるのはA1出口一つだけである。
適当に改札を出てしまうと、エレベータのある出口はどこにあるのやら。目的地と全く反対の位置にあったり、エスカレータのある出口がどこにあるのかよくわからないと、使い勝手が良くない。

私には車いすで移動する友人がいて、一緒に街を歩くことがある。
車いすだと、あらかじめ駅の情報を調べ、目的地と出口の関係なども確認しておくのでむしろ混乱は少ない。
最近は駅員も手慣れたもので、電車の入口まで駅員が同行してくれるし、降りる駅にはあらかじめ連絡が通じていて、電車から降りるときには駅員が待機しており、出口まで案内してくれる。
実に親切な対応である。そのような経験をしているので、バリアフリーも進んでいるのだなあという印象を持っていた。

ところが、今回、歩けなくはないけれど、階段はかなりつらいという身障者とは言えないレベルの弱者にとっては、駅の使い勝手が良くないと気付かされた。
JRの有楽町も利用したが、阪急百貨店の最寄りの改札から駅に入るとそこにはエスカレータのない階段しかなく、エスカレータのある階段に移動するには、もういちど改札を出るしかないという具合だ。
せめて出入り口の表記に足の不自由な人に対しての配慮がもっとほしいと感じた。

しかし、公共の施設に対して文句を言うのは簡単だが、すべての階段をエスカレータに替えるのは無理である。
昔と違ってエスカレータやエレベータが一つもない駅はほどんどなくなっている。
私が母の足のことを考えてあらかじめ出入り口の状況を調べておけばよかったのである。
うかつであったが、普通に歩いている者にとっては見えていないことが多いのだろう。

足の悪い人だけでなく、目の不自由な人、耳が聞こえない人、私はそれらの人の立場に立って世界を感じることができているだろうか?

そんなこと無理である。

あらゆる他人の立場にたって物事を感じ考えるなどということが人間にできるものだろうか?
私は若いころはそうはできない自分を発見すると落ち込んだりしたものである。

今日はひとつ勉強できた。
明日はそのひとつを活かせばいいのだと思う。

結局わたしたちは縁のある範囲でしか生きられないのだから、与えられた縁を大事にして生きればいいのだ。
昨日まで知らなかった自分を恥じて自分を責める必要はないと思う。

人間は全能ではないのだから自分のできる範囲を無限に広げる必要はないのだ。
実はこの感覚は宗教的なものである。