魔の侵入
魔界仏界同如理(まかいぶっかいどうにょり)と申しまして、仏も魔物も同じ理(ことわり)の元にあるといいます
仏も魔物も差異は実は大変曖昧です
ご祈祷の作法の中で魔を払う所作があります
魔を払うと一緒に聖なるものもいなくなってしまうといいます
そこで「いえいえあなたは残って下さい」という所作をします
魔界仏界同如理を仏教学的に解説することは私の手に余りますが、ご祈祷をするものの実感としてこのことに敏感でなくてはなりません
魔の中に聖なるものがあり、そして聖なるものの中に魔がある
特に後者が大事です
拝んでいると私の中の欲望が強く活性化することがあります
私の場合、性的なものと怒りですね
人によっては物欲や功名心かもしれません
月例祈祷は一週間連続して拝みますがその間、ムラムラしたり怒りっぽくなったりすることがあります
そして一週間終わるとそれらは、きれいに消えてしまう
私も慣れてきたのでそういう感覚を、ある程度客観視出来るようになってきましたが、先日、ある人のことでイライラして、暴言を吐いてしまいました
今、ある強力な力があるとされる仏様を拝んでいる最中なのですが、この怒りはいつもと違うと感じました
聖なるものを拝んでいるつもりが、いつの間にか摩に囚われてしまう
これはいつもと違う
これに敏感でないとたちまち取り込まれると思います
仏を拝んでいていつの間にか対峙しているのは魔物になっている
これがどういう現象なのか私には解説出来ませんが、師匠のよく拝むところの聖天尊などはよくあることだと聞きます
「陰極まって陽になる」と同じように「聖極まって魔に転じる」というか、互いに互いを内包しているというか、自分の尾を飲み込むウロボロスの蛇というか…
このあたりが密教の言語化できない「秘密」かもしれません
私の身体は多分魔に感応しているのです
そしてそれを完全に排除してしまうとご祈祷は成立しない
飲み込まれると破滅します(二人知ってます)
火山口のぎりぎりの縁に留まるのだと師匠にむかし教わりました
聖なる力が強いほど魔の力も強力なのでしょう
世の中をきれいなもので全て覆い尽くそうとするのは危険だと思います
天台宗では天部を拝んでよいのは僧正クラスであって、ご祈祷を始めて間もない僧侶が修するのは生意気だ、とする空気感があると聞きました(ちなみに私は天台寺門宗)
確かに初行のものが手を出してはならない尊格はあるようです
そこで思い出したのが「鬼滅の刃」の映画の炭治郎の無意識の描写です(唐突!)
つづく…