ある人が自分は差別主義者であると言います。
どういうことか尋ねますとその人曰く、
差別とは、人に差異があることを認め、その差異によって振る舞いを変えること。
と定義するそうです。
その人に言わせると、電車でお年寄りに席を譲るのは差別だそうです。
年寄りが弱っていて若者は元気だというのは偏見に過ぎない。
その伝で言うと、女性専用車両は差別です。
福祉は全て差別であります。
その人はご自分を差別主義者と言っているわけですから、福祉は悪だなどと言っているわけではなく、差別には不当なものとそうでないものがあるとおっしゃっているのです。
あらゆる差別は悪である、ということを貫けば、人の差異を全く認めないか、人の属性によって、振る舞いを全く変化させないかになるしかありません。
そして現実世界はそのようになりつつあります。
男らしさは悪いものとの教育が始まり、MTF(男性から女性への性適合手術をうけた人)の方がオリンピック重量挙げに女性として参加します。
差別を絶対に悪とみなす思想には、彼女をオリンピックに出さない結論は導きびけないでしょう。
振り返ると、弱者に対する支援にはクレームがつきやすくなっているように思えます。
コロナ罹患者への攻撃は、誰かに対する特別扱いに対する抵抗から来ているのではないか?
弱い人という属性を特別扱いすることは差別だからです。
例えば、LGBTの人たちは今そのようにカテゴライズされることを不当なことと主張し始めています。
ある属性に帰属させることは偏見を生むからです。
それはLGBTを差別するなという主張と矛盾しかねないと思います。
近年の生活保護に対するバッシングは、特別扱いに対して、自分はそのような恩恵を受けていないという「被差別意識」から来ているのではないか?
かくして人の属性による振る舞いの差異を認めないでいると、世界は全て自己責任で塗りつぶされることになりましょう。
果たしてそれは優しい世界たりうるのか?
結局、他人の属性による私の振る舞いの違いであるところの差別が、良いものか悪いものかは、個別に判断するしかないのでは?
良い差別があるのだ、ということを認めない限り、世界は全くの均質に向かうしかなくなるという主張です。
驚くべき指摘だと思います。
その主張を認めれば、多様性と差別をなくすこととは、実は相性が良くないということになります。
そういえばフェミニズムは女性というアイデンティティを非常に強調する思想であり、男女は同等だと言っているわけではありません。
むしろ、man=humanであることのアンチテーゼとして始まったはずです。
私はこの方の主張に反論出来ませんでした。
「らしさ」の否定は危険なのではないか?
能力も美醜も貧富もその人の属性です。
「美しい人が愛されるのは差別」は、正しいのか?
赤ちゃんに「なんてかわいいのかしら」と言うことは差別か?
そうではなかろうという立場です。
過激な主張とも思いますが無視してよいものではないと感じます。
例えば、男女には差があるのだ。
相手の性によって(LGBT含む)、こちらの振る舞いを変えて良いのだ。ただその振る舞いが正当なものかどうかを個別に検討するしかないのだ、という言い方になりましょう。
差別は絶対ダメだと叫ぶ人たちになんとなく違和感を感じている人たちをバックアップするようにも思います。
どなたかこの方の意見に反論があればぜひお聞かせ下さい。
深めるべき議論だと思います。
感情的にならずに。
参考までに
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