「許し」と「悲しみ」について
数年前、あるセミナーで2回だけ受講した「マヤ暦」という占いがあります。
急に資料にあたりたくなって、ネットで検索していると、私は「白い魔法使い」だそうです。
そして、そこには以下の記述が、
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「許す=愛す」が最大のテーマです。
「許せない・・・」それでも「許せますか?」と試される状況が多々訪れます。
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実は私には思い出すたびにイライラしてしまう人間が数人いて、その度に憎悪の感情に飲み込まれそうになります。
白状しますがご祈祷の時にそうなることが多い。
何か縛りが解けてしまう時なのだと思います。
実は最近、私自身が、ある人から「許せない」と思われる対象になりかねない事象が起こりました。
その時に目に入ったのが、上記の
「許せない・・・」それでも「許せますか?」と試される状況が多々訪れます。
という言葉。
還暦を超えて私は憎しみを向けられる側の気持ちの一端を知ることになりました。
(具体的にはご法事での失敗です。個人的にお会いできればお話しできる内容です。犯罪ではありませんから…)
憎しみを向けられる側の気持ちがいかに苦しいかに思い至ったその時に「許し」についての記述を見ることになったのです。
「許せない」という気持ちは人間に対して向けられるだけではありません。
何故、このような理不尽なことが我が身に起こらなくてはならないのか?!
先日、学生時代の友人の奥さまが病気で亡くなられ、そのお通夜に伺いました。
奥さまは59歳という若さで亡くなられたのですが、施主の当初の感情の中には、何故!という怒りの感情が含まれていたと思います。
おそらく、さまざまな苦しみを経てそこに立っていた施主には、悲しみだけではなく、その現実を引き受けたものだけが持つ神々しさを感じました。
彼はこの受け入れ難い状況に対して幾ばくかの「許し」を与えたのだと思います。
マヤ暦が私の人生の最大のテーマは「許し」だと説く。
このシンクロニシティに身が震えます。
いま、ウクライナはロシアの蛮行により理不尽な酷い目に合わされています。
現状、ロシアにどのようなイクスキューズがあろうともロシアを許してはならない状況でしょう。
しかしながら、遠い未来のその先に「許し」が求められるときが来ます。
私どもはウクライナと、そしてロシアの為にも「許し」がなされるように祈らなくてはなりません。
それは現実への対処とは独立して宗教家である私どもの責務のように思います。
お葬儀はほとんどの場合、悲しみだけでなく「癒し」に満ちている空間です。
それは「許し」の力ではなかったのか、と思い至るのであります。
(しかしながら悲しみに心配りの無い僧侶など論外なのです。)