山形での恒例の忘年会③-1

貴重なお話をいくつか頂いたので備忘録です。

①私の昔の信者さんで、4代前のその家の息子が、好きな女性と結ばれずむりやり引き裂かれた、その恨みが今のこの家の不幸の根幹にある、という訴えがありました。

私は4代前の男性の供養をしたのですがはかばかしくない。

そのうちその施主とは疎遠になってしまいました。

私の中でずっと引っかかっていた案件なのですが、その場合、恨みが最も深くなるのは相手方のお嬢さんの親になる可能性が高いと教わりました。

お嬢さんが、その男性を好きであったのなら何代にも及ぶ負の影響は実は残りにくい。

それより娘の親がその男性の親、ひいてはその「家系」の断絶の念を抱いて亡くなるというのです。

ですからこの場合、男性側の子孫は自家の先祖のみでなく、相手方のために懺悔し、供養しなければならない、というのです。

供養とは先祖を慰めるのみならず、先祖の犯した罪を子孫が代わって謝罪し、相手方の供養を含まなくてはならない。

ここで、この視点は私には全くありませんでした。

数年前にわかっていたらまた結末に違いがあったかもしれません。

 

以下、Facebookに投稿した際のコメント欄も記載します

K.Tさま
それってアノ協会と同じでは?

藤川 竜光
K.T さま
そうそう、私もその指摘はあると思いました。
だから多くのひとが、おそらく優しい人たちが逆らえなかったのだとおもいます。
指導する側の見識が必要です。
私は家を売ってでも金を作れとは言いませんからご安心を。

藤川 竜光
具体的には、そのような観念をすることによって供養の方法や、もっと言えば回向料に違いはないのです。
ただ、苦しんでいる人が、私は被害届である、という認識だけに囚われていると問題は、解決しづらいという話でもあります。

結局、私達宗教家は非科学的な事をしているのです。
拝んで病気が治る(医学は決して否定しませんが)というのを本気でやってます。
ただそれは「非合理」ではなかったりするのですよ。
理があるのです。
占いもそうです。

Kさま
おっとと〜〜。
その観念がなかったことを知って、逆にびっくりしております。
基本的な供養はすべからく、関わる総ての罪業にも調え養いを。は前提と思うちょりました。

藤川 竜光
Kさま
懺悔文の話は良くします。
具体的に相手方のお嬢さんの親
という視点に気付かなかったという話。
しかし迂闊ではありました。

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)
従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
私は、4代前の彼が被害者という視点から抜けられなかったのです。
加害者とはいえないとしても、相手方の親の想いにまで思い至れば、最も違った想念が生まれていたなあと。

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