自分の発した声を客観的に聞くことは案外難しいのです。
このことが難しいと初めて認識したのは学生時代の合唱の経験でした。
周りとずれていることが認識できるためには、当たり前ですが、自分と他人の声を両方聞く必要があります。
「そろう」ことの心地よさを知っている人間にとっては「そろっていない」ことはとてもストレスなのです。
確かに、これは同調圧力に他なりません。
「みんな一緒に!」は昨今では悪でしょう。
しかし、この「そろわない」(シンクロできない)ことの不愉快さは耐え難いものがあるのです。
合唱では半音ずらして歌う、などということも要求されます。
同じリズムと音程で歌えないような人には到底不可能なことです。
他人と同じである必要は、確かにないのです。
しかし、ずれるのなら意識的であれ、と私は思う。
人生うまくいかない人は、自分が、ずれていること自体わからない人が多いように見受けられます。
そろえようと思えばそろえられるのが大事。
逆らうのはよい、でも、知らないうちにずれている、という人は生きづらいと思います。
自分が聞こえていないのです。
古代ギリシャのアカデミアでは算術、幾何学、天文学、音楽が必修だったそうです。
音楽大事!
追記
あぁ 超絶コバンザメ唱法がなつかしい。
追記2
自分のことは見えない。
でも自分の発言は聞けます。
自分を見るとは「自分を想像する」こと。
バイアスがかかります。