高額医療負担制度の限度額が引き上げられるという。
例えば、今まで最高月8万円の負担だったのが、12万円になるという具合だ。
子育て世帯や働き盛りの病人は、特にがん患者の団体から激しく批判があるようだ。
まことに痛ましい。
しかし、12万円の後ろには100万円単位の国の負担が隠れている。
国全体ののことを考えれば、このまま医療費が膨らんでいけば医療そのものが破綻するのも事実だ。
私たちは苦しくても負担を少しずつ受け入れることを考えなくてはならない。
なるべく皆が納得できるような工夫は必要だが、「私(わたくし)」が制限されることはもはや避けられないと思う。
「公(おおやけ)」とは全体の利益の為に「私(わたくし)」の働きが制限されることを受け入れること
だと思う。
かつて「私」を犠牲にして「公」に尽くすことが蔓延して戦争につながった。
昭和のころは家庭という「私」を犠牲にして会社という「公」に尽くすことが容認され、美徳とさえされた。
その反省から、今は「私」を制限することは悪になっている。
「公」に振り切ることが戦争になったように、「私」に振り切っても国は亡びる。
他人に迷惑をかけないことの強調は、一見「公(おおやけ)」のようだが、私には「私はどのような些細な迷惑も拒否する」という究極の「私(わたくし)」のように思える。
医療サービスを今まで通り要求することは、私たち年寄りが、若者を搾取していることのように思えてならない。
全体の為に、あなたは我慢してね、と言えなくなって久しい。
男性原理と女性原理の拮抗にも見える。
哲学が必要な案件である。