二人の考え方がまるで違っていて、もう話し合いも無理と判断すれば、距離を置けばよい。

人それぞれに考え方があるよね、とか言いながら、付き合いを避けることは可能だ。

しかし、政治はそうはいくまい。

何に予算を使い、何を削るか、どのような法律を作り、どう運用していくか?

どうしても、何らかの結論を出さざるを得ない。

それは妥協であり、どちらの立場をも包括できるようなあいまいなものにならざるを得ない。

それが大人の対応だと私は思う。

しかし、今、世界中で主張はわかりやすく、単純化され、あいまいで鵺(ヌエ)のような老獪さは拒否される。

世の中の考え方は無限に複雑で、相反するものであるのだから、そりゃあ、政治団体はどんどん極小化され分轄化される。

昔は、対立軸は経済であった。豊かなものと貧しいものが金をめぐって争った。

金が富むものから、貧しいものにわたるようになれば、それはそれで安定することができた。

しかし、今は価値観の対立になった。

〇〇は~~であるべきだ。いや、〇〇は△△であるべきだ。

これにクリアな決着など着くはずはない。

価値観が先鋭化すれば、妥協は悪だ。

かくして、自民党と立憲民主党的なあいまいな紐帯は「寄せ集め」であり「烏合の衆」として排除される。

しかし、私は「わかりやすい」ものは危険であると思う。

そして「わかりやすい」ものはつまらない。もう、この感覚を共有できる人は少ない。

そしてこれら幼児化は実は「多様性」によってもたらされたものではないかと疑っている。

大人になるとは、こうあるべきという社会が共有できるイメージが崩壊している。

かといって、かつての家父長制の礼賛などごめんだ。

哲学の出番のはずだが、なにも見えない。

先鋭化しないことが仏教的な「中道」である、というのは間違った理解であろうか?

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