聖天浴油をさせてもらうようになってこのかた、葬儀はしなくなるのだと思っていた。
聖天さまは回向を嫌うというのが通説である。
ところが、私の兄弟弟子のお父様が危篤になり、師匠から、もし亡くなられたら藤川が導師(葬儀を執り行うお坊さんのこと)をせよとのご指示をいただいた。
以前、葬儀にもご祈祷の側面があり、同じように感応道交が必要なのだ、と書いた。
今回は、三年ぶりに導師をしてみて、ご祈祷との「違い」をいろいろ感じた。
お浄土にお送りするというのはとても難しいご祈祷なのだが、私の心のもち様が世俗のご祈祷とは随分違うのだ。
以前、ある大徳から、葬儀とご祈祷両方やるのは大変ですねぇ、と言われたことがあったが、その時はその言葉の重みがよくわからなかった。
葬儀には優しさ、柔らかさ、ぬくみ、が必要であり、またそのような気分にさせてもらえる。
正直、かつて上げにくい故人もあったけれど、今回のお葬儀は参列者の皆様との心の交流のようなものも感じられ、私も慰められた。
なるほど世俗の祈祷と葬儀(回向)には向き不向きがあるのだろう。
師匠の師匠は、聖天信仰は最後には阿弥陀信仰につながるのだ、とおっしゃったという。
聖天様の半身は十一面観音様であるのだから、そりゃそうだろうぐらいに思っていたが、二神の合体とは、実は回向と葬儀の深淵の合体の意味が隠されているのではと、何の裏付けもないまま、ふと思ったりした。
師匠からは、信者と身内の葬儀はしてもよいと言われている。
ただ聖天行者として軽々しくし導師を引き受けるべきではないのも確かなことだ。