罰(ばち)があたりました
といっても、昨年の八月末、二回目の羽黒山修験(荒澤寺秋峰)での行中の話です。
羽黒修験での行の内容は決して漏らしてはならないという固い誓いがあり、詳細は語れないのですが、トイレにまつわる、あるタブーがあり、私はそれを破ってしまったのです。
もうすぐ行が始まるというまさにその時、先達(せんだつ)の方々がいらっしゃるその直前になって、私は尿意をもようしました。決まりを守りながらトイレに行くためには、ある作業をしなければならず、時間がかかるために、みなさんを待たせることになる。ご迷惑でもあるし、みっともないし、という気持ちが先に立って、私はそのやるべき作業をせずに、小便をいたしました。
これがいけなかった。
私はその後、行中で唇を切り出血し、さらに、川で転んで右手の小指を強く打ち怪我をしてしまいました。
口火の出血は派手でしたから、みなさんにご心配をおかけしましたが、それは実はたいしたことではなく、困ったのは右手の怪我のほうでした。
痛めたのは小指だけでしたので、食事その他の作務にはほとんど影響がなかったのですが、印が結べない。
大変情けなく、つらい思いでした。
私は神仏との約束を世俗の都合よりも優先すべきだったのです。
世俗の都合とは、みなさんを待たせたくない、行が始まる前になんとかこの場所に戻りたいということです。
冷静に考えるとその作業にかかる時間はせいぜい、二分でした。
いえ、たとえそれが二十分かかるとしても、私は神仏との約束を優先すべきでした。
あの聖なる空間のなかでは特にそうあるべきでした。
罰(ばち)が当たるというのは、神意の現れです。
実は、唇を切ったのは罰だと指摘してくださったのは先達です。
情けないことですが、指摘されるまで気が付きませんでした。
羽黒は不思議でありがたいところです。