日本人は、流されやすく、自分で何も考えない国民性だ、という指摘があった。
しかし、
1.流されずに、
2.自分で情報を検索し、
3.さまざまに矛盾する情報から正しいものを自分の責任できちんと判断し、
4.そしてその判断が間違っていたとしても、
5.それを自分の選択の責任としてうけいれ他を責めない
という人が大多数の国民、ってどこの国なんでしょうか?
私はパニックになってはいけないし、落ち着いているべきだと思うし、いまの状況はどうあれ受け入れるが、「安全である」という大連呼も実は信用していない。
プロトニウムが雨あれらと降ってくるとは思わないが、原発の局地とはいえ、3000倍とかいう数字に鈍感になっている自分は、やはり間違っている気がする。
ヨウ素は8日で半減しても、炉からできているのがヨウ素だけのはずはない。
最初のころは炉は頑丈で、いかにも中のものが漏れるなんてことはないという感じだったはずだ。
水素爆発の水素は燃料集合体のジルコニウムと水が反応してでてきたと言っておいて、おいおい、水素が中から出てきたなら他のものだって出るだろう、という素朴な疑問に答える「専門家」は当初誰もいなかった。
なにが起こっているかが正しく検証され、明らかになるのは、ずっと後になってからだ。
いまは、たぶん、誰もわからないのだと思う。
何が正しいか、どういうプロセスで何が起こったのかは、さまざまな科学的検証を経て、議論された後に、だんだんと明らかになっていくものであろう。
いま、正しい情報をわかりやすく直ちに公開せよというのは無茶だと思う。
私たちはいま、正しい情報に基づいて行動すべきというよりは、まったく曖昧模糊とした危うい基盤の上で何ができるかを問われているのだ。
友人は、先日、香港で入国拒否されそうになったそうである。
おろかな話だが、不安を理性でどのくらいコントロールできるかは大いに疑問である。
私は平気だけど、家族は、子供は、乳幼児は、そして、お客様は・・と人が考えた時、この行為をおろかだと簡単に笑い飛ばす気にはならない。
理性的であるということは、リスクをとる覚悟を持つという勇気と友情の問題だと思う。
知性の問題であるかどうかは怪しいもんだと思う。
その意味で、「祈ること」は意味のあることだと信じる。