煩悩即菩提

岡村隆史さん、ラジオで「コロナが収束した後、きれいなお姉さんがお金に困って風俗嬢として働くようになるからそれを楽しみにしてコロナを乗り切ろう」という類の発言をして大炎上しました

NHKはわざわざテロップを「チコちゃんに叱られる!」の番組終了後に流して岡村さんの謝罪の内容を流しました。NHKは岡村さんを切らない方向で行くのでしょう

女性蔑視の問題は軽く扱ってはならないのだと思います

難しい判断だったと思います

ただ思うのは、「美しいもの、清潔、正直、正しさ、清廉潔白…」で世の中を覆いつくすのは危険だと思うのです。

「淫猥なもの、嘘、汚いもの、人には言えないこと…」を排除すればするほどしっぺ返しが来ます

立派な家庭ほど、どうしようもない破壊的な子供がでるのはよくあることです。

子供を殺してしまった元農林水産事務次官や、真言宗の有名なお坊さんで子供が殺人事件を起こしてしまった例など、いくつも浮かびます

親が美しければ美しいほど、その影を誰かが引き受けざるを得なくなる

ユングの「シャドー」の理解でよいと思います

私どもは「三宝荒神」という神様をお祀りします

一般にはかまどの神として知られていますが、これは根本無明の神格化 要は煩悩を拝んでいるのだと教わりました

「煩悩即菩提」という言葉があって、煩悩は悟りの種であるというような解釈がなされますが、わたしは違う風にとらえています

昔は煩悩をきれいに昇華させて美しいものに変化させなければならないと思っていました

でも多分そうじゃないのです

煩悩はそのままに、汚いものを汚いままに、聖なるものとして拝む ということです

仏教には元悪魔の神様がたくさんいらっしゃいます

その方がたはおのれの悪を克服して善なるものに変貌をとげた…ではない気がする

悪は悪のまま拝む これはまさに密教的な感覚で、私などの浅学にはとてもテキストには落とせませんが、だからこそ密教は誰でもやっていいものではないのでしょう

理趣分(大般若経巻第五百七十八)というご祈祷によく使うお経のなかにも、一般の人にはとても開示できないような、えぐいことが書いてあったりします
(在俗の人は読んではならないお経が世の中にはあるのです)

まあ、浅いレベルとしては「悪に寄り添いながら悪に振り回されない」というところでしょうか

岡村隆史さんを擁護するのは大変難しい

女性蔑視の根深さを指摘されれば私など何も言い返せません

芸能人にそのような清廉さを要求してどうするのだという指摘も、根拠に乏しいと思います

でも、怖いでしょ

この「正しさ」の氾濫

自粛警察のやっていることは「間違い」なんでしょうか?

自粛警察のやっていることは「正しい」ことだと認めるしかないと思っています

だから嫌なんです

気持ち悪いのです

煩悩にまみれたわが身としては、その言い訳にすぎないのかもしれません

「悪」の問題はとても難しい

でも「善」で埋め尽くせば「悪」は消えるというのは間違いだとは確信しています

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200515-00000393-oric-ent

仏教は泥に咲く蓮の花として表現されますが、泥を含めて仏教だということを聞きました

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です