一生懸命拝むこと
私は霊媒体質だそうです
もう20年くらい前になりますが、私に憑き物の事件があり(藤川無自覚でした)その時に、藤川くんは霊媒体質だね、と師匠に言われました
霊媒体質だと何かいいことはありますか?
とお尋ねしましたら
霊媒になれるよ
と言われたです(ここ笑うところです)
中座(なかざ)前座(まえざ)と申しまして(落語のぜんざではありません)直接霊が降りて来るのが中座、中座の発する言葉や仕草を読み解くのが前座です
霊媒になれるよとは、中座になれるとのことです
ただ中座は自分を空しくする必要がありその為の心構えがあります
最もよい結論が導かれるように祈念すること
というのものですが、何が最もよい結論なのかは、世間知とは一致しません
ですから、知恵の巡る人は中座には向かないそうです
昨今はもちろん口に出来ませんが、昔から中座は女性と子供であったとはそういう含みがあるそうです
(まぁ私は向いていると言われたのですが…)
そこに世間知が働いてしまうと霊媒はうまく行かない
実はご祈祷にもそれが現れます
行者が一生懸命躍起になって祈り込めるものは効かなかったりします
以前、鍵をなくしたから、出てくるように拝んでほしいと頼まれたことがあります
名前が書いていない
袋に入っていない
どこで落としたかもわからない
青面金剛尊の引き戻し法という行法があります
正直、私は世間知の範囲では、そんなの出るわけないよねぇとか思いながら、次第通りに拝みましたら数日後に道端で近所の人に発見され持ち主に戻るのです
私が驚いてしまいました
実は先日の頂いたメールのご病気の快癒もそうです
がむしゃらに拝んでもダメだと教わりました
軽くと言っては語弊がありますが、私の「強い思い」という世間知が入らないほうが祈願が叶うことはよくあります
自分のなくしたものは拝んでも出てきたためしがありません
私のものは私の思いが強すぎるのだと思います
忘我の時が瞬間でも訪れることが必要なのかもしれません
大法のほうがそういう瞬間は訪れやすいです
自分のことは他人事になれない
そういう意味では、あまり情の深くない人のほうがご祈祷が効く可能性があります(苦笑)
お任せするとはそういう側面があります
なかなか訓練で得られる境地ではないです
これこれ努力するとこういう結果が得られるというものでもないです
お経を沢山読誦し、山に登り滝に打たれれば、それだけ験が強く現れるはずだと考えていると間違えると思います
(行は道楽ですから)
私の努力が必ずしも結果に直結しないという現実はなかなか辛いところです
達成感は感じにくいです
ご祈祷が叶っても私の力ではないのですから
ここを勘違いして「俺が拝んだから叶ったのだ」になったらお終いです
摩に取り込まれます
パラフルな神仏や行者は要注意!
依我功徳力とは努力とは違うと思います
(いがくどくりき)と読みます
次回、摩に取り込まれるの話を少し書きます
如何にして藤川は…のシリーズはまた近々再開予定です
よろしく