逆張りの主張②-4
らしさ=予定調和
予定調和とは、こういう人はこういう言動とるよね、ということ。
予定調和は全くの悪でしょうか?
○挨拶をすること
○借りた金を返すこと
○手を差し出したら握手してくれること
等はあらためて声に出して要請せずとも当然期待して良いことだと思います。
しかし、世の中には、
○自分以外の人(親含む)が作った料理を食べられない人
○少量の化学物質に過敏に反応して苦しむ人
○内部疾患を抱え外見からは見えない人
○ワクチンをどうしても打ちたくない人
○避難所でどうしても個室の必要な人
○特定のアレルギー物質を食べると死んでしまう人
等々、今までの予定調和が通じない少数者のパターンが数多く報道されます。
全ての少数者のことについて詳しく知ることは不可能です。
あらかじめ、全ての「少数者」のためにメニューと対応の仕方を準備しておけ、というのは酷な話ではないでしょうか?
ならば、先入観を捨て、あらゆる場面において、その人の在り方、生き方について瞬時に反応して対応するべきであり、行動をあらかじめパターン化すること(予定調和)は悪である、
と万民に要請するのは無理だと感じます。
少数者側からのアプローチが必要です。
何の表明も無しに「わかってね」は無理。
私たちは予定調和が崩れることがあり得ることを受け入れるだけで、あらゆる予定調和(=らしさ)を否定するのは無理だと思います。
私たちは全能の神ではないのです。
せいぜい、メジャーな少数者に対して新たな「予定調和」を作ることができるだけ。
それが新しい「らしさ」であると認めたいと思います。
(しかし予定調和な「言葉」は大嫌い。)