戦争は殺し合い

櫻井翔さんの元日本兵の方に対するインタビューが「炎上」しているそうです。

 

元日本兵の方に「アメリカ兵を殺してしまったという感覚は、当時は?」と問いかけたことが問題になっているようです。

12月6日放送の日本テレビ系情報番組『news zero』での発言だそうです。

ちなみに私は直接見ていませんし、情報ソースはネットの記事↓のみです。

https://news.livedoor.com/lite/article_detail/21335003/?fbclid=IwAR3wd4fjh7vNk5VSsZQB3cREX1XwhIgKPGPvRVWyHewslIimkVZGVvnOyZw

 

私の知っている人に「自分自身が殺されるかもしれない、または、家族が殺されるかもしれないときはためらいなく武器をとる」と公言される方がいます。

私はどうしても違和感を感じてしまいます。

そのような極限状態に遭遇すれば武器を取って敵を殺すことが正しいのかもしれません。

ただ「ためらわずに」できるだろうか?

殺してしまった後に何も感じずにいられるだろうか?

櫻井さんの質問がもし残酷だとすれば、「人を殺してしまった」ことを否応なく想起させるからでしょう。

 

「日本兵の尊い命の犠牲の上に今の日本がある」のは間違いないことだと思います。

しかし、また同時に「敵兵や敵の民間人を大勢殺してしまった」という重い十字架を日本兵に背負わせてしまった。その十字架のおかげで今の私たちがあることを忘れてはならないと思います。

私たちが戦争反対で聞かされる言説は「こんなにひどい目にあった」がほとんどだと思います。

 

実は、この言い方は戦争の抑止には力不足だと思っています。

実際に敵が攻めてきたときに「ひどい目にあいたくない」という理由のみを前面に出せば、戦争を避けることは、直ちに「逃げること」「降参すること」につながるでしょう。

それですべての人が納得できるとは思えない。

国を守るために自分の命を懸けることを覚悟すべきである、あの日本兵のように。

という言い方に私は逆らう自信はありません。

 

私が、自分が生き残りたいなら目の前のこの人間を殺せと言われたら当然、躊躇します。
そしてそのためらいがどんどん薄れてしまうのが戦争の現場だろうとも想像します。

アメリカでも日本でも退役軍人は多くの人がPTSDで苦しむそうです。

人を殺されなくてはならない苦しみとはどんなものか?

 

私の母は昭和20年(終戦の年)の時は7歳でした。

いま83歳です。

昭和20年で二十歳だった人はいま、96歳。

その苦しみを語れる人はあと数年で日本からいなくなるでしょう。

櫻井氏はどうしてもそれを聞かなくてはならないこととして聞いた。

元日本兵はそれを聞かれて大変苦しかったと思います。

失礼でもあったでしょう。

しかし、私は櫻井氏のインタビューを是としたい。

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