「調える」「調う」について
先のきりんさんによるリズムについて再考したい。
押さえておくべきポイントは、
ここで言うリズムとは、三拍子や四拍子のように一定の拍を刻むことではなく、
早くなったり遅くなったり、変拍子が入ったりして常に変化し続ける運動のこと。
ふと思うのは、私がイライラする相手は、話していて、リズムの合わない人であった。
聞く、話す、考える、沈黙する、待つ、促す、これの「間」を互いに調整しないとコミュニケーションはなりたたない。
これは個人だけでなくグループのリズムとの調和の問題にもなる。
ようは、私が、考えてるのか、動いているのか、止まっているかに頓着しないで発話する人達との相性は最悪だ。
合わないのは、話の内容ではなく、リズムだったのだと思い当たる。
相性とはこの互いのリズムの調和のしやすさ、あるいは調和に関する感受性の多寡なのだろう。
ここで面白いのは、このリズムというのが、私の個性そのものであるということ。
静的(スタティック)な性格というものでなく、この変化し続けるリズムが私そのものであるという感覚。
そしてこのリズムは、世界という大きなものにも存在するという感覚。
人同士は調整可能だが、世界の側のリズムを変化させることは出来ない。
人同士の相性がリズムの「調えやすさ」であったように、環境のリズムとの調えやすさの難しさ、容易さが運勢なのだということだろう。
きりんさんの仰ることで重要な点は、環境のリズムは、場所、立ち会う人・モノ、仲介するものによって変わるということ。
世界は一つの巨大なリズムではなくいろいろなレベルのリズムが輻輳する場なのだと思う。
神仏との感応は互いのリズムの「調え」であるようにも思う。
実は調え方にも個性がある。
こちらからすり寄ることが多い人もいれば、強引に自分の側に組伏せる人。
どちらも利点と欠点がある。
私(あなた)のリズムパターンが生きづらさの根本だったりするのだ。
そのパターンを否応なく変化させるのは、まさにリズムの不協和がおきているときしかない。
すなわち運の悪い時こそ変革のとき。
「あなたはあなたのままでよいのだ」のはずはなかろうと思う。