いきなり聖書の話で恐縮ですが、キリストの足に高額の香油を注いで、キリストを祝福した女の人の話が出てきます。
マグダラのマリアです。
(聖書にマリアは大勢登場して、なになにのマリアとだれだれのマリアは同一人物だとか違うとか、いろいろと論争があるようです。ここでは細かいことは気にしないでくださいね。)、
彼女は娼婦で、彼女の行為を目撃した人達は口々に彼女を批判します。そのような高価な香油は、お金に換えて、貧しい人たちに施したほうがより良い使い方だとかなんとか言いがかりをつけて、要は、娼婦のような汚れた女がキリストに触れたことに憤った人達が、彼女を石で打ち据えようとします。
そこでキリストが一言
「今までに一度も罪を犯したことのないものだけが、このものを石で打て」
かくして、マリアはその罪を許されます。
これがキリスト教の文脈です。
一方でアングリマーラは仏教のお話です。
アヒンサ(のちのアングリマーラ)はある仙人のもとで修行していたのですが、仙人の奥さんに関係を迫られます。もちろん断ったアヒンサですが、奥さんは逆ギレして、自分の服を引き裂き、旦那さんである仙人にアヒンサに乱暴されたと告げ口します。
仙人は奥さんの言うことを信じ、アヒンサに無理難題を命じます。
「千人の指を集めてネックレスを作れ。そうすれば悟りに至るであろう」
ヒンドゥーの神様にはドクロのネックレスや人の腕でできた「腰みの」をしていらっしゃる方がいますが、実際に作れというのは無茶な話し。
アヒンサは苦しみますが、師匠の言うことには逆らえず、人を殺しては指を集めはじめます。
そのうち精神を壊したアヒンサは鬼となり、アングリマーラ(指の首飾り)と恐れられます。
999人分の指を集めて、あと一本となったとき、お釈迦様に諭されてようやくアングリマーラは正気を取り戻し、仏弟子となります。
そして彼は托鉢を行います。
さて、ここからがポイント。
アングリマーラは托鉢の途中で石で打たれるのです。
アングリマーラはお釈迦様にその苦しみを訴えますが、お釈迦様はただ托鉢を続けよ、としかおっしゃいません。
そしてアングリマーラは石で打ち殺されてしまうです。
マリアとはえらい違いです。
仏教には救いがないのでしょうか。
私は最近、信者さんによくこの話をいたします。
仏教は、積み上げてしまった罪や業(ごう)をなかったことにはしてくれないのです。
「お前の罪は許された」とは言ってくれないのです。
仏様は私たちに罪を自覚させ、その償いをすることを手伝ってくださるということです。
借金したら、借金をチャラにしてくれるのではなく、返済をいっしょになって手伝ってくださるということです。
アングリマーラは罪を重ねました。
彼はそれを償わなければならなかった。
お釈迦様との出会いがなければアングリマーラは罪を償うことなく地獄に落ちていたのでしょう。
私どものご祈祷も同じです。
結局、病気も貧困も人間関係の苦しみも自分の業の現れとして身に降りかかったのだという覚悟がどこかで必要です。
ただそれは自業自得なのだから自分の責任でなんとかしろ、と突き放しているのではないのです。
仏様は一緒に罪を背負って一緒に歩んでくださいます。
魔法使いが杖を振れば、なんでも願いが叶うというわけにはいかない。
けれども、自己責任ということでほったらかしではないのです。
このあたりがわかっていらっしゃらない方のご祈祷は効きづらいです。
ですから、難しいご祈祷ほど、信仰が大事になります。