先日、信者さんの奥様が突然心筋梗塞で倒れられた
(以下、信者さんのご承認を得て記述します)
お子さんの体育祭での出来事らしい。
実は奥様は今年、火曜星という星回りでいわゆる厄年であった。
それで今年の二月には星まつりで厄除けの御祈祷を受けていた方である。
私は、御祈祷していたのに関わらず病気が防げなかったかと一瞬たじろいたが、御主人によると御祈祷の験が現れて助かったのだという。
奥様の血管は、かなり時間をかけて詰まっていたらしく、いつ爆発してもおかしくない爆弾を抱えていたのだという。
発作は突然前触れもなく起こるので、例えば、就寝中とか、昼一人でいるときに発作が起こっていれば助からなかったそうだ。
その意味で体育祭は周りの父兄に医療関係者もおり、AEDも操作され、御主人もそばにおられ、爆発するタイミングとしてはこれ以上ない好条件であったようだ。
これは御祈祷の験の現れ方としてはとても具合のよいものだ。
トラブルは生じるが、軽く済む、というのが実はよいのだ。
トラブル自体がなくなるという形は、実は爆弾を抱えながらそれを先送りすることになる。
今回は奥様の血栓は手術できれいに取り除かれた。
「業」とは、この血栓であると思う。
過去生から積み上げてきたさまざまな業はいつか吹き出る。それは明日かもしれず、遠い来世の事かもしれない。
しかし、必ずそれはいつかは爆発するのだ。
業の無い人、過去いちども罪を犯したことの無い人などいないとすれば、誰であっても、その業が噴出したときは、それを受け止め、対処しなくてはならない。
御祈祷はその噴出してしまった業(不幸)をなかったことにするものではない。それに向き合い、それと戦い、それを乗り越えていくためのお手伝いをすることである。
不幸に直面する覚悟の無い人には御祈祷は効果が出にくい。
病気は否応なく向き合うしかないが、人間関係や経済問題、精神的な悩みなどは、祈祷師に金を払って何とかしてもらおうという態度だけではよくならない。
体の病気であっても薬さえ飲んでいれば治るものでもない。養生をし、家族や医療関係者への感謝の気持ちや、人生の反省がなければ治らない。
この奥様のご主人は大変信心深い方で、上記の理屈は先刻ご承知であるので、奥様の一大事のときでさえ、私にお礼を言ってくださった。
ありがたいことである。