仏教の重要なテーマに因果論があります

「原因があって結果がある」

ということです

当たり前ですね

逆に原因のない結果とはなにか

それは人知を超えたこの世の外の絶対的な神がすべてを決定しているという立場です。
因果論の強調は、それを認めないということでもあるのですが、
なおさらそれは宗教から遠い原理ではないのかと感じていました。

因果論にどのような宗教的な意味があるのか

私は実際に信者さんのありようを見ていて感じることがあります。

たとえば、何度も何度も引き続いて病魔に襲われる人がいます。

その方は、なぜ自分はこんな目にあうのかと問うでしょう
医学的な診断が下され、例えば糖尿病だとか、ガンだとか、心筋梗塞だとか言われてもそれはどのように病気になったのか、HOWを言うだけでWHY(なぜ)には答えてはくれません。

甘いものの食べ過ぎとか、煙草の吸いすぎとか、遺伝とか言われてもその人にはなんの慰めにもならないでしょう。

私どもはその病気には原因があるのだ、と答えるしかありません。
その原因とは当人が作ったものもあるでしょう。親が作ったものもあるかもしれません。

生まれる前の前世で、その人が作ったものかもしれません。
遠い昔その人の先祖が何かをしたのかもしれません。
先祖だけでなく、村や集団の作った悪業かもしれません。

もはや原因は特定できません。
それはどこまでも過去にさかのぼり、関わる人は無限に広がり無始に至ります。
しかし原因はあるのです。

私たちはその過去のすべての原因を引きずって今に生きています。

霊能者と呼ばれる人がいて、たとえば四代前の男の人が不慮の死を遂げ、祀られていないのが原因だと言ったりします。実際に調べてみるとその通りのことが確認できて、回向すると病気が治ったりします。

あやふなな状態に確定した形が与えられ、具体的な対応策が提示される
それだけで人は安心感を得るのでしょう

しかしそれで終わってしまってはもったいない。
原因は、それだけでは終わらないはずです。その男の人の死にはさらなる原因があるのです。
どこまで行っても尽きることのない原因。

発症した病気には前世も含めた過去のすべてを引きずった「原因」があるのだという現実を丸ごと引き受けるしかありません。

そしてここがポイントですが、私たちはその原因を解消する責任を負わされているのです。
私はここがまずは宗教的な感覚だと思います。

自分の知らないこと、自分が直接やっていない悪事、それについても私たちは責任を負っているという感覚。

併せて、悪業に対して、申し訳ないという謝罪の感覚が伴う必要があります。
自分は何もしていないという点に執着していると事態は動きません。

逆にこの感覚を受け止めると、仏さまの救済が動き始めます
仏さまの救済の風はいつでも吹いています。
しかしその風を受けとめる帆を張らない限り船は前に進みません。

「なぜ、自分はこんなひどい目に合うのだ、こんなひどい目にあうほどの悪事は自分はなしていない。」
ここにとどまってはなりません

実はこの感覚は仏教のもう一つの大事なテーマ「空」ともかかわってきます。
病気は世界から切り離されたある特定の人だけに限定された現象ではありません。

すべての過去、すべての関係性の糸が紡ぎあげた移りゆく現象です。
不幸も病気も移りゆくものです。

仏さまも因果の内にいらっしゃいます。仏さまは悪業をなかったことにはしてくださいません。
しかし悪業の解消を力強く支援してくださいます。
そのためには結果には原因があるのだ、悪業があるのだということを、まずは受け入れる必要があるのだと思います

不幸があった、ご祈祷したらよくなった、そこだけにとどまっているとただの呪術に落ちます。

お気を付けください。

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