貪瞋痴(とんじんち)の痴について
仏教において「貪瞋痴(とんじんち)」という言葉があります
貪:むさぼり
瞋:いかり
痴:知恵に暗いこと
といいまして、苦しみの根本原因といいます
まとめて三毒(さんどく)と申します
むさぼり、いかりが苦しみの原因というのはわかりやすい
でも「痴」が難しい
私はこれを読んで「バカは救われない」ってこと?
と、何となく納得いきませんでした
普通、この部分は〇〇という真理を知らないこと
という説明がなされます
例えば「諸行無常」「因果の理」「諸法無我」とかです
そんな難しいこと一般の人が言われてもわからなくないですか?(私は今でもよくわかりません)
この貪瞋痴の「痴」をきちんと説明するのは大変です
ヒントは「思いやり」だと思っています
思いやりは「思い遣り」
「他人の身の上や心情に心を配ること」だそうです
出典:デジタル大辞泉(小学館)
こんなことを言ったら言われた人はどう思うだろう、この境涯にいる人はどんな苦しみを抱えているのだろう、これは「想像力」がなければできません。「忖度(そんたく)」といってもよいです
見えていない状況や予想されることを勘案することなしにその対象を想像することはできない、相手を思いやるには知性が必要だと信じます
想像できても共感できないこともあるでしょうが、まずは想像することは不可欠です
そして「相手はどう思うだろう」と問いを発すること自体難しいことだと思います
ネットには「私はこう思う」という知性があふれ「この人はどう思うだろう」が少ない気がします。苦しいです
私どもは、人さまの相談にのっていますが、たまに本当に度し難い(救いがたい)人がいらして、そういう人は要するに「他人も自分も見えていない」気がする
「知性」が決定的に欠けている人、言葉の通じない人は大変です
そこにこそ祈りが必要な気もしますが、なかなか届かない
「バカは救われない」は本当かも、と思ってしまう時がちょっとだけあります
そんな難しいこと言わず「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」を唱えていればよいのです、というのは庶民を救おうとした法然、親鸞、日蓮 の聖(ひじり)たちのギリギリのところだったのかも、と浅学な私は想像します
(仏教学の知見ではなく、私の個人的見解です)
(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗は教団の理論は大変精緻と聞いています
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次回は、慈悲と智慧はワンセット
で書こうかと思います
(難しくて挫折したらごめんなさい)
先ほど十一面観音供養法958座め修し終わりました