受戒とは その3

私はご祈祷と宿曜占星術の講義を主な生業とするものですが、ご法事による収入も得ています

お葬式ともなれば10万円単位のお金が動きます

 

大きな寺院のお葬式ともなれば3桁のお金が動くこともあります
法要は長くて2,3時間だと思いますから、時給に換算すればン十万円の収入となります(大きなお寺の話ですよ 私じゃなく)

 

これをサービスの提供に対する対価と考えると法外な金額に見えましょう

実際そのように感じる葬儀社や施主は多いと思われます

 

今、僧侶へのお布施はディスカウントの流れの中にあり、寺院経営は大変な状況です
(このあたりの裏話はとても書けないので…)

実は「僧侶が受け取るお金は労働に対する対価ではない」

というのが仏教の立場です

 

そもそもお釈迦様の時代は僧侶は働いてはいけない存在でした

お釈迦様は王族のご出身ですから教養も教育もあります
あるとき詩をそらんじたところ、その素晴らしさに感動した有力者が多額のお金を差し上げたところお釈迦様はそれをそのままお返しになった

詩に対する対価としての金は受け取れない
ということです

徹底してますね

労働に価値を見出すのは仏教が中国に入った後のことだそうです

 

ではどうやって僧侶は生きていくのか

 

寄進に頼る

ということです

 

尊いことをしている僧侶を経済的に助けたい、という人の善意に頼って生きる

ということです

かなりギリギリの生存戦略だと思います

この態度は今でも建前としてあるのです

ですからお布施には定額がないというのが一応の前提です

 

檀家とは代々その寺の経済を助ける在家のことです

そうすることがその人の功徳を積むことになるという理屈です
積んだ功徳は金額の多寡によって違うとすれば、その証としての戒名が変わるということです

お布施をすることで、施主は徳を積むことになる
というのが僧侶の側の理屈です

 

かつては檀家であることを拒否することはその地域社会では生きていけなくなるような実際のペナルティもあったようです

しかし昨今、地方を離れて都会に出てくる人たちにはもちろんそのようなことはありません

 

そもそも「檀家」という言葉自体知らない方は多い
私どもに回ってくる葬儀や法事のお施主は、もちろん上願寺の檀家になるなどという意識はありません

地方は地方でどんどん人が減る
都会は都会で誰も檀家になどならない

かくして寺の経営はどこも大変なはずです

檀家が自動的に寺の経営を支えるという仕組みはもう、存続できないのだと思います

 

それこそお釈迦様の時代の原点に立ち返り、寺や僧侶が尊敬される存在にならないでは存続できないということなのでしょう

本来当たり前ですよね

 

しかし、そもそも寺と普段かかわりのある人はどのくらいいらっしゃるのでしょう
一生に一度か二度しかかかわらない寺に対する尊敬って何?

 

それを取り戻そうとして、寺では相談やご祈祷に対する関心が高まっています

僧侶が法事のみでなく、占いや祈祷に関心を示しているということです

金額だけを言えば、ご法事の収入に比べると占いや祈祷は大変効率が悪い

しかしそういうことで普段からの信者さんとの関りを取り戻していかないと未来はないという危機感が特に地方の小さな寺院にはあるのだと思います

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です