女性と公

先ほど、女性には公が薄いと感じると書きました。

「公」とは「わたくし」を含まない事象ととりあえず捉えたいと思います。

「公」と「私」は対立する概念であるとします。

本日NHKの朝の番組で、北九州の公害問題に異を唱えて抗議したのは女性たちであったという話を知りました。

男たちは会社や、地域の経済に逆らえない、逆らうのは正義ではないという態度で、廃油を垂れ流している会社に抗議する女性たちを冷ややかに傍観し、それどころか、非難さえしていたといいます。

私の、子供たちの、家族の、「私」の命を守るために、彼女たちは「公」と闘ったという図式だと捉えました。

社会心理学で、グループによる課題解決の実験を行うと、男子(小学生)のグループはたちどころに、役割分担が発生し、効率的な共同作業になると言います。

女子(小学生)はグループ内の序列の決定に時間がかかると言います。

対して、女子のパフォーマンスがもっとも上がるのは、二人だけでの作業になるそうです。

共感力を発揮して、協力し合うと言います。

男子二人だと、能力の劣る方が、やる気をなくして結局作業を行うのは一人だけになってしまうそうです。

これは、大勢での作業は男の方が向いているという言い方であり、企業内の女性差別の温床そのままですが、しかし、先の北九州の話を鑑みると、「公」に飲み込まれない女性的な感性は決して外せないとも思うのです。

戦争に対する感性もそう思います。

子供や配偶者を戦場に送りたくないという物言いは「公」ではないと思います。

「戦争反対」と叫ぶことは「お花畑」だという言説は、男性の「公」によるものだと感じます。

私は政治の世界に女性を一定割合以上にするべきだという発想に賛成するものです。

ただ、・・・・

今日のNHKの都知事の政見放送の悲惨さを見てしまったあとでは、「私」の自由を制限する「公」の大事さを強調するべきなのかなあ、とも思います。

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