①より続く
この問題はそもそも「公」と「私」を両立させることが原理的に可能なのかという問いを生む。
「私」とは私的領域、この場合「家族」のことであろう。
多くの働く女性たちは「公」と「私」ともに充実させようとして疲弊しているように見える。
男性は「私」の領域に関わらざるを得なくなって、女性からその出来の悪さを攻撃される。
そもそも「公」とは「私」でない領域のことだ。
分けてしまったほうが、効率はよいだろうが、現在「私」を無視して生きることは容認されない。
前にも書いたが、ウクライナやガザの戦争において、「国家」「主権」「領土」「尊厳」といった「公」の概念だけでは、解決はおぼつかない。
政治だけでなく、企業においても「公」だけでは回らなくなり、「私」を取り込まざるを得ないのだと思う。
おそらくそれに成功した組織(国を含む)が繁栄する時代なのだろう。
女性たちは「公」のルール、作法を理解して、活躍の場を広げてきた。
こんどは男性が「私」の原理を理解して歩み寄る順番が来たように思う。
男性脳は「公」に、女性脳は「私」にカスタマイズされているという。※
男が「公」、女が「私」を代表してきたのだとすれば、互いの作法を知的に理解して歩み寄ることは可能だ。
じつはもう一つやり方がある。
はなから「私」をあきらめてしまう。
具体的には家族を持たないということだ。
多くの宗教者はこの戦略をとってきたはずだ。
藤川はこれでいく。気楽なもんである。
「男」の集団と「女」の集団の平均値の差異よりも、個人差のほうが大きい、だから、「男」「女」を語ることには意味がないという言い方がある。
なにもかもを個人差に還元することは私は生産的では無いとおもう。
男性性、女性性という補助線をもって、知的に差を補い合う、歩みよるほうがよい。めんどくさいが。
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