信者さんで離婚した元夫のお義父さんの供養(施餓鬼)を毎年なさっている方がいる。
よほどよくしてもらっていたのか、一度はその姓を名乗った義理を感じているのか、詳しくは伺っていない。
立派なことだと思う。
昨今は死後離婚と称して「婚姻関係終了届」を提出して姻族(配偶者の家族)との親族関係を解消することもあるようだ。
我慢することや、自分の意に沿わないことを強制されることは悪徳である時代背景において、
元義父への供養を続けることの意義は大きい。
私はこれを「義理」と呼びたい。
義理とは「つきあい上しかたなしにする行為」
という意味では本来なかったはずだ。
物事の正しい筋道であり、 社会生活を営む上で、他人に対して務めたり報いたりしなければならないこと。
信者さんは心から喜んで供養をなさっているのか、それはよくわからない。
ここで「離婚した夫の義父の供養を続けるべきか」という一般的な問いをたてるのは無意味だ。
大事なのは、信者さんはしっかりと信者さんなりの義理を果たしていること。
この「義理を通す」という感覚はご祈祷をお願いするうえで、とても重要である。
神仏への義理立てと考えてよい。
かなり奥の話ではある。