薬師如来は十二の誓願をたてられましたが、特に第七願が有名です。
私たちの病気を治してくださる仏様です。
親しみをこめて「お薬師様」とお呼びすることが多いです。
お薬師様を阿弥陀如来や、釈迦如来のお像と区別するのは左手にお持ちの薬壺です。
薬壺は「やくこ」と発音することが多いようです。何かを手にもっていらっしゃる位の高い仏さま(如来)はお薬師さまだけだとおもいます。ですから簡単に薬師如来の像は他の如来像と区別が付きます(実は古いお像は薬壺をもっていらっしゃらない場合も多いようですが・・)

お薬師様はそのお名前のとおり病気を治してくださる仏様ですが、実は病気は体のことだけではありません。お薬師様にとって人生の苦しみはすべて病いです。十二上願を丁寧に読んでいただければお分かりだと思いますが、経済のことや食事、衣料のことまでお薬師様は気にかけてくださいます。

私が一番大事に感じているご請願は第五願であります。

第五願   具戒清浄
無数の人々が、修業中に邪まな情欲に身をゆだねず清らかな修行をするときには、すべての人々が戒を保つようにしよう。
例え戒を冒すようなことになっても、我が名を聞くなら、清らかな世界に戻り、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣の世界に堕落することのないようにしよう。

戒はいろいろありますが、私たちが僧侶として守るべき戒は以下の十善戒とよばれるものです。

不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。
不偸盗(ふちゅうとう) 盗まない。
不邪淫(ふじゃいん) みだらな性的関係を持たない。
不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
不綺語(ふきご) 言葉を必要以上に飾らない。
不悪口(ふあっく) 悪口を言わない。
不両舌(ふりょうぜつ) 二枚舌をつかわない。
不慳貪(ふけんどん) 欲張らない。
不瞋恚(ふしんに) 怒らない。
不邪見(ふじゃけん) (因果、業報、輪廻等を否定する)間違った見解を持ちません。

とくに僧侶だけが守るべきものには見えないでしょう。普通の道徳をわきまえているものなら当然守ってしかるべき徳目ばかりです。
上願寺でも信者さんにはこの十善戒を毎日お唱えするようにお勧めしています。

戒は授かる(さずかる)ものです。
戒を授かることが僧侶になることだと言っても過言ではありません。
戒を正式に授けるために鑑真和上は多くの苦難の末に来日され、比叡山が戒を授けるための道場を(大乗戒壇)を設立するために伝教大師最澄は亡くなるまで大変な努力をされたのです。(朝廷よりの「戒壇院建立の勅許」が出たのは、亡くなって後七日目でした)

これだけ重要な戒ですが、内容は上記のような、ある意味常識的なものです。
実はこれらは単純に、守るべき目標のリストでもなく、違反したら罰則のある法律でもありません。

戒は授かるものです。この身に頂戴するものです。
戒を授かることによって不思議な力が働いて戒を守るように見えない力が働きだします。
この不思議の力こそ大乗戒の本質だと私は師匠から教わりました。

私も未熟な人間ですから小さな嘘をつくこともあれば、イライラして人をどなりつけることもあれば、みだらな気持ちもわいてきます。肉も魚もいただきますから不殺生戒を守っているとも言えません。しかし、戒を授かっていると不思議とそういう悪の誘惑から少しずつ遠ざかり、戒を守ることで安心に近づけるのだということも分かってきます。十善戒を完全に守りきれる人はおそらくいません。しかし、生き代わり死に代わりしていくうちに必ず仏様は、それを守る方向に私たちを導いてくださいます。欲望を解放するより、節制していくほうが楽に生きていけることに気付かされます。戒を守ることで私たちは楽に生きていけるようになるのです。

実は、このことが病気を治す本質のような気がします。
戒を破る生活を繰り返すことがすべての病気の源と私は考えています。
この私たちを導く力こそがお薬師様の「第五願 具戒清浄」であると思います。

ただし、戒を守りましょう、そうすればすべての病気は治ります、などと簡単に言えません。病気になれば医者にかかり薬を飲み手術を受けねばなりません。
お薬師様は医療を否定したりしません。
しかし、同時にその時こそ、お薬師様は実際に私たちに病気が治るという不思議を示してくださいます。
病気が治るというのはお薬師様の功徳の入口に過ぎないのかもしれません。あくまでも第一のご請願である私たちが仏になることを導くことが大切なのでしょう。そのための戒でもあります。

人はいつかは必ず亡くなります。病気にかからない人もいません。ご祈祷をするから必ず病気が治るとも実は言えません。
それでも少しでもお薬師様の不思議を信じて素直にすがれる人だけがお薬師様の威徳を受けることができます。

病気は体の病だけではありません。
人間関係の悩みもお金がないこともお薬師様にとっては病気なのです。