僧侶と女子力⑪
愛は戦いを呼ぶというお話を書きました
ちなみにヒンドゥ教の女神カーリーは殺戮と破壊の象徴です
日本語において愛が良い意味を持ち始めるのは明治にキリスト教が本格的に日本に入ってきてからのようです
それまでは愛とは「貪(むさぼ)りと執着」の意味です
恋愛はふしだらで恥ずかしいことだったのです
良家のお嬢様は恋愛などしてはならなかった
ですから「愛」と「慈悲」とを区別したり、キリスト教における「エロス」と「アガペー」を区別したりして「貪りと執着」のない尊い気持ちこそが本当のLOVEなのだという言い方をすることが多いようです
でも「貪りと執着」なしに人は本当に誰かを愛したりできるものなのでしょうか?
それなしに子孫を残したりできるかしら?
私にはどうしてもきれいごとにしか聞こえない
だからこそ神の領域かもしれませんが…。
密教は多分、
「そんなん無理っしょ」
という立場だと思います
三宝荒神のところでも書きましたが、そういうシャドーを否定するとしっぺ返しに合う、あるいはそこにこそ価値を認めないとだめだという立場だと思います
愛は戦いを生む、それを覚悟しつつ、愛を捨てない
ここでの愛は「貪りと執着」です
そのような離れ業を要求するのが密教だと浅学ながら私は思います
ですから⑨の最後に書いた
「密教においては、密教が必ずしも、人を立派にしないからです」
につながると思います
続きはまた…
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC