みんな本音を言うようになった。
LGBTqの人たちが自由にものが言えるようになった。
男が男を好きになって何がわるい!
まことに結構なことだと思います。
しかし、そういう存在は許さないという本音は、言いづらくなってしまった。
世の中に、言って良い本音と、悪い本音があるというのは多分通らないのだと思います。
モヤモヤしている人はそこに引っかかっている気がする。
実際にはインターネットの普及(匿名性)も相まってあらゆる本音がダダ漏れです。
私は、このダダ漏れはみっともないことだと思う。
世の中には決して口にしてはならないことがある。
まともなことと、そうでないことがある。
多様性とは「なんでもあり」、なのではなく、「まとも」の適応範囲が広がるということだと思います。
「まとも」は時代によって変わる。
私が子供のころは電車の中に灰皿があった。
森喜朗さんの発言も昔は問題にならなかった。
ピカソのご乱行もジャニー喜多川氏のそれも問題にされなかった。
今は違います。
「まとも」を規範と言ってもよいです。
結局、私たちは規範から外れて生きてはいけないのではないか。
くだらない規範が減ると同時にやかましい規範も増える。
「まとも」、「規範」はどんどん変化していく。
ファッションから政治からゴミ捨ての仕方に至るまで規範にあふれています。
それはとても窮屈なことですが、かと言って、一切の縛りはあってはならない、というのは言い過ぎです。
「まとも」とはどういう状態か?
この変化の激しい時代で、私たちは常にその状態をフォローアップしなくてはならない。
とてもストレスフルなことです。
しかし繰り返しますが、決して口にしてはならないことがある、そういう規範があること自体は譲ってはならないと思います。
ピーコさんが認知症の万引きで逮捕され、りゅうちぇる氏が亡くなり、ジャニー喜多川氏の悪行が暴かれ、札幌の女装が絡む殺人事件が起こる。この共時性のなか、何か発言せずにはいられませでした。
フェイスブックでも正義と憎しみに満ちた文章をよく目にします。
この人にはとても反対意見はぶつけられない、会話出来そうにないという文章は「まとも」ではないと思っています。

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