男は強くあらねばならない?

昨今これは言ってはならない言葉のようです。

男だって弱音を吐きたい、泣きたいときもある・・・そりゃそうでしょう。

そしてこの「男らしさ」の呪縛が男を苦しめているということです。

 

男だろうが、女だろうが人は強くなくてはなりません。

同様に、他人に対して寛容で受容的で優しくなくてはなりません。

もちろん、そこに男も女もないというのは当たりまえです。

そして、これらを呪縛と呼ぶなら「らしさ」から男女を外せば、男女双方を縛ることになりましょう。

人類の半分で済んでいた呪縛が全体に広がるということ。

 

私が危惧するのは逆に「強くなくてもよい」「優しくなくてもよい」という、より楽な方に流れるだろうということ。

そんなことが通らないことは若い人はみんな分かっていると思う。

「らしさ」は呪縛です。

でも呪縛なしに人は一人で立てるのか?

呪縛があるからこそ、私たちは自分を鑑み、反省し、そして反発してきました。

 

呪縛は私たちを苦しめてきた。確かにそう思います。

しかし、呪縛を解くとは「規範」を解くこと。

規範がなければ楽に決まっています。

宗教は呪縛を含みます。

御祈祷をする行者として、呪縛は必要と考えます。

(実際に方法もあります(笑))。

 

「男が強くなくてもよい」という言説は「強くあらねば」という強い呪縛があるのが前提です。

青少年に最初から強くなくてもよい、「男らしさ」は害悪であると伝えることには慎重でありたい。

わたしは「女性性」がもっと前面に出るべきで「らしさ」そのものの概念を否定するのは危険だと思っています。

これは極めて哲学的な問いです。

 

「らしさ」についてはいったん終わります。

逆張りシリーズはほかにもあるので・・

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