苦しみとは何か?
一つの形として「希望的予測が裏切られること」というとらえ方があります。

・恋人だと思っていた人から、自分の誕生日に連絡も来なかった
・今度こそ昇進できると思っていたら、なんの連絡も来なかった
・嫁が挨拶もしてくれない
・どうしても金が必要な時、友人の誰一人貸してくれる人がいない
・隣人がうるさい。静かにしてほいいのに
・孫の顔を見たいのに、遊びに来てくれない
・ひどいことをされたのに、謝ってくれないどころか、罪の意識さえ無いように見える

等々

主に人間関係の苦しみはみなこのパターンのように思えます。
(病気や、災難による苦しみはまた別かも知れません)

私たちは、この苦しみに耐えていかなければなりません。
他人の多くは、自分が望むようには、考えてくれず、行動してくれず、感じてくれないからです。

他人と自分とは考え方、常識には必ず違いがあるからです。
あなたと私が同じ人間でない以上、この苦しみから逃れることは不可能です。

ひたすら、私たちはじっと耐えるしかないのでしょうか。
この苦しみが苦しいのは、その状態が永遠に続くかもしれないという恐怖にあるのです。
永遠の苦しみに耐えることができる人はいません。

そこで提案です。

耐えるとは待つことだと考えよう、ということです。

いつか必ず事態はよくなる。
いまは苦しいけれど、耐えるの「時間」であって、「苦しみそのもの」ではないのだという感覚です。

待つことは苦しい。
しかし、苦しみの原因そのものにとらわれていると、多くの場合、なんの解決も見いだせません。
どうして、あの人は、こういういやなことをするのだ、どうしてこんなにいやなやつなのだ、といくら考えてもなにも変わりません。

待つことを知っている人は、事態は必ず変化することを知っている人です。
変化はいつ現れるか予想がつかないけれど、必ず、事態は変わっていきます。
苦しみの条件は不変ではないからです。

これが実は「空」なのだと思います。

世界は常に流転し、一時も留まることがない。
「縁」とは実は物事をそう有らしめている条件のことですが、縁は時間の経過や新しい関係が追加されることにより、常に変化します。

このことを実感できればできるようになるほど、つまり「空」が実感できればできるほど苦しみに対処することができるようになるのではないでしょうか?

般若心経の解説本には「空」は実態のないこと、というような解説が多くありますが、それがいったい私たちの救いと何の関係があるのかという解説はほとんど見たことがありません。

私の師匠は「苦しみも空であると知れ」と教えてくださいました。

私たちは必ず歳をとり、運命に翻弄されて、日々必ず変化していきます。
苦しみの状態は永遠不変のものではありません。

耐えるということは待つということなのだ。

ということに思い当れば、苦しみは永遠に続くわけではないと思えるのではないでしょうか?

待つことができるようになること、これば大人になることだとさえ思えます。