最近「絆」が大流行です。
なんとなく違和感があったのですが、先日読んだ「反・幸福論」(佐伯啓思著)でおもしろい指摘がありました。

p71~

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今頃になってまた「コミュニティ」が見直されたり、時には「絆」などと言われたりします。両方とも、「共同体」や「縁」とはあえて言わないのです。「共同体」や「縁」は「ムラ」や「イエ」を連想させていまうからです。「絆」というのは、個人がある意味で自由に選びとり作り出すものです。それは偶然を引き受けようという「縁」とは似てはいるが全く違った言葉です。
「家族の絆」にしても。「地域の絆」にしても、個人が決意して作り出すものです。だけれども「家族の縁」や「地域の縁」といった時には、そこに、何か目に見えない超自然的なものが作用し、それを「縁」と表現すると考えるのです。人々の結びつきは本当は偶然で、何の特別な意味もないのですが、この「超自然的な力」を信じたことにして、「縁」を必然とみなそうというわけです。
 だから「コミュニティ」の見直しや「絆」を大事になどといわれますが、この場合にもやはり「血縁」や「地縁」は忌避されているのです。

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なるほど、私が感じた違和感は「絆」という言葉に宗教的な含みが希薄であることにあったようです。

このあと、近代の死生観の喪失といった話につながっていきます。
とても興味深い内容でした。
ご一読をお勧めします。

反・幸福論 (新潮新書)