慈悲と智慧の話(その2)
三尊形式の仏像はほぼ「慈悲」と「智慧」の象徴である
という話でした
二つでセットということです
慈悲は「慈」+「悲」という二つの概念からなる言葉だそうです
「いくつしみ」と「共感」です
慈は「衆生に楽を与えたいという心」
悲は「人々の苦を抜きたいと願う心」
とされ「抜苦与楽」と申します
特に「悲」は他の人の痛みを我がことのように感じることのできる心の働きであり「共感」であると説明されます
「慈悲」は救済の原動力だと思います
慈悲の心がなければ誰かを救う(誰かとは自分自身も含みます)動機が発生しません
でもそれだけじゃちょっと足りないのだと思います
「かわいそうに」と思うだけでは救済になりません
救済の実態は「智慧」の役割だと思います
仏教における「智慧」の考察はそれはそれは複雑で「六波羅蜜」やら「五智」やら難しい概念がいっぱい登場します
(頑張って調べてみましょう)
「智慧」は宗教において重要な概念で、たとえばアダムとイブは智慧の実を食べてエデンを追放されます
智慧は神のものだからなのでしょう
「慈悲」を因として「智慧」が働き「救済」が果となる
ご祈祷して思いますが、仏の救済は智慧の発動だと思います
奇跡的な不思議も起こりますが、人間が理解できるようなアイディアが降りてくることもあります
考え方やとらえ方が変わるということです
智慧を忘れると怪しげな「スピリチュアル」に転がります
ご注意ください
(怪しくない「スピリチュアル」もあるのですよ)
智慧は人間だけのものではありません
ミミズにも、樹にも、神にも智慧が内在しているのだと思います
智慧が曇るというのは単に頭の働きが鈍いということではなさそうです
どんな人も、いくらなんでもミミズよりは頭がいいと思いますから
仏の智慧が何かが体得できれば仏教が分かったことになるような気がする(こんな大胆なこと言っちゃっていいのだろうか)
でも、学問も科学も仏の智慧とは別のものではないと思います
貪瞋痴の痴から始まった話でした
「智慧」が曇ることは罪なのです
私ごときが語りきれるはずのない内容ですが、そもそも語りきることなど不可能ですからこれで良しといたしましょう